東京高等裁判所 平成4年(ラ)911号 決定 1993年10月08日
抗告人
甲一郎
右代理人弁護士
伊藤和夫
主文
一 原審判を取り消す。
二 抗告人が次のとおり就籍することを許可する。
本籍 東京都板橋区<番地略>
氏名 甲野太郎
父の氏名 甲野二郎
母の氏名 金三江
続柄 長男
生年月日 昭和一一年二月一一日
理由
一本件抗告の趣旨及びその理由は、別紙「就籍許可の申立却下審判に対する即時抗告の申立」(写し)記載のとおりである。
二当裁判所の判断
1 記録によると、以下の事実を認めることができる。
(一) 抗告人は、中華人民共和国福建省福清県高山鎮の常住人口登記表(以下「登記表」という。)に父甲二郎の長男甲太郎と記載されている者である。
また、登記表には、抗告人の生年月日が一九三六年(昭和一一年)二月一一日、出生地が日本と記載され、更に父の別名が甲野二郎、生年月日が一九〇四年(明治三七年)一〇月一八日、出生地が日本、父の妻(抗告人の母)が金三江、生年月日が一九〇八年(明治四一年)八月三〇日、出生地が中国とそれぞれ記載されている。
また、中華人民共和国福建省福清県公証係公証員の公証のある親族関係証明書には、抗告人が日本国在住の甲野春子の甥と記載されている。
(二) 甲野二郎(甲二郎)の母は、甲野夏子である。同女は、明治一九年二月一三日、東京府八丈島三根村において、父乙川四夫、母乙川秋子の五女として出生した日本人であり、明治三七年一〇月一八日、氏名不詳の日本男性との間に甲野二郎をもうけたが、右男性とは婚姻しなかった。その後甲野夏子は、東京府小笠原島父島大村の甲野五夫と結婚し、明治四一年一月五日、長女甲野春子をもうけたので、明治四二年二月一三日、甲野五夫と婚姻届出をした。したがって、甲野二郎と甲野春子とは異父兄妹に当たる。
甲野二郎は、幼少時、甲野夏子の実家である八丈島三根村の乙川家で成育し、成人後、小笠原島父島において、芸者をしていた氏名不詳の日本女性との間に、昭和七年一月二九日長女花子(甲花子)を、昭和八年九月二九日二女丸子(甲丸子)をそれぞれもうけた。しかし、右女性は、甲丸子を出産して三か月位経ったころ、小笠原島父島を出奔して行方不明となった。
(三) 甲野二郎は、その後、知人の紹介で中国人の金三江と同棲し、小笠原島父島において、同女との間に、昭和一一年二月一一日抗告人を、昭和一三年四月三日冬子(甲冬子)を、昭和一五年一一月二二日七郎(甲七郎)をそれぞれもうけた。したがって、抗告人は甲野春子の甥に当たる。
甲野二郎は、昭和一七年ころ、一家で中国へ渡り、上海市虹口区の日本人居住区に住み、甲花子らを日本人学校に通わせるなどしながら終戦まで暮らしており、同市において金三江との間に甲六郎(昭和一八年六月二〇日生)をもうけた。
(四) 甲野二郎は、終戦後、一家をあげて上海市から日本に帰国しようとしたが果たせず、知り合いになった中国人の好意により福建省福清県高山鎮で暮らすようになった。甲野二郎と金三江は、同地において、甲八郎(昭和二一年一二月一九日生)をもうけたが、金三江は昭和三七年三月四日に、甲野二郎は昭和五三年八月二五日に、それぞれ日本に帰国できないまま同地で死亡した。なお、甲野二郎一家は、生前甲との姓を用いていた。
(五) 小笠原島父島は、昭和一九年六月一五日ころ、アメリカ軍の空襲を受け、村役場が焼失した。このため、小笠原島父島の戸籍が焼失し、小笠原島が日本に復帰した後、役場関係者の記憶に基づき戸籍が再製されたが、一部の戸籍については再製できなかったので、現在、甲野二郎一家の戸籍は、存在しない。
以上の事実が認められる。
2 右認定の事実に基づき、抗告人が日本国籍を有するか否かについて判断する。
(一) 抗告人は、昭和一一年二月一一日生であるから、出生時における日本国籍取得の有無は旧国籍法(明治三二年法律第六六号)により判断される。
旧国籍法は、子の出生のときに、その父が日本人であるとき、又は父が知れないか日本国籍を有しない場合において母が日本人であるときは、子を日本人とする旨定めている(一条、三条)。そして、右にいう父子関係は法律上のものであることが必要とされる。ところで、前記1で認定したところによると、抗告人の生物学上の父は甲野二郎で、日本人であると認められるが、抗告人の出生時において抗告人と甲野二郎との間に法律上の父子関係が成立していたとは認められないうえ、抗告人の母金三江は中国人であるから、抗告人が出生により日本国籍を取得したとは認められない。
(二) ところで、旧国籍法は、外国人女性が日本人男性の妻となったときには日本国籍を取得する旨(五条一号)、日本の国籍を取得する者の子がその本国法により未成年者とされるときは日本の国籍を取得する父又は母と共に日本国籍を取得する旨(一五条一項)それぞれ規定しているところ、抗告人は、金三江が甲野二郎と婚姻することにより日本国籍を取得し、その結果、抗告人が日本国籍を取得した旨主張するので、この点について検討する。
平成元年法律第二七号による改正前の法例一三条一項は、日本人と外国人の婚姻につき、婚姻成立の要件は各当事者につきその本国法により定め、婚姻の方式は挙行地の法律による旨規定している。金三江は、中華人民共和国成立当時、同国が支配する上海市に居住していた中国人であるから、同国成立以降、その本国法は中華人民共和国法になると解される。そこで、民法及び中華人民共和国の婚姻に関する法律である中華人民共和国婚姻法(一九五〇年四月一三日中央人民政府委員会第七次会議採択)における、婚姻の成立要件及び婚姻の方式を検討する。民法は、婚姻意思の存在、婚姻適齢(男子一八歳、女子一六歳)に達したこと及び重婚でないこと等婚姻障害がないこと(七三一条ないし七三六条、七四二条一号)を婚姻成立の要件とし、戸籍官吏に届出することを婚姻の方式として要求している(七七五条)。一方、中華人民共和国婚姻法は、婚姻意思の存在、婚姻適齢(男子二〇歳、女子一八歳)に達したこと及び重婚でないこと等婚姻障害がないこと(二条ないし五条)を婚姻成立の要件とし、居住地(区、郷)人民政府への登記を婚姻の方式として要求している。しかし、同法については、登記を欠く場合であっても、婚姻意思を有し、婚姻障害がない男女が同棲し、社会的にも夫婦と見られるに至ったとき(事実婚が成立したとき)は中華人民共和国の方式により婚姻したものと解釈されており、日本法上も、事実婚の成立による婚姻を挙行地の法律による方式に従ったものとして有効であると解することができる。そして、事実婚成立の時期が中華人民共和国成立以前であり、子の出生前に父母の婚姻が中華民国法の定める方式によって成立していない限り、中華人民共和国が婚姻の成立を認めたことが明らかでない場合には、同国が成立した昭和二四年一〇月一日をもって同国の方式により婚姻が成立したものとされている。
中華民国法九八二条は、婚姻は、公開の儀式及び二人以上の証人があれば有効に成立する旨定めているところ、記録を精査しても、甲野二郎と金三江が同棲するに当たって、公開の儀式を行ったこと及び二人以上の証人が存在したことを認めることはできないから、甲野二郎と金三江が中華民国法の定める方式によって婚姻したとは認められない。
甲野二郎と金三江は、昭和一七年ころ、上海市に渡り、以後終戦まで同市で暮らし、終戦後は福建省福清県高山鎮で暮らしていて、右高山鎮の常住人口登記表に夫婦として記載されるなど、婚姻意思をもって実質的に夫婦として暮らし、同地の人から夫婦であると認められていたことは前記1で認定したとおりであり、記録によると、甲野二郎と金三江は上海市に渡った昭和一七年ころには、民法及び中華人民共和国婚姻法上、婚姻適齢に達しており、また同人らの間に婚姻障害はなかったと認められるから、同人らは、中華人民共和国の方式を履践しているというべきであり、その婚姻の日は同国成立の日以前であって、かつ、同国が右婚姻の成立を認めた証拠はないので、同国が成立した昭和二四年一〇月一日に同人らの婚姻が成立したと認められる。したがって、日本人の甲野二郎と婚姻した金三江は、右婚姻により日本国籍を取得し(旧国籍法五条一号)、その子である抗告人(当時一三歳であり、中華人民共和国法においても未成年者とされる。)は母である金三江と共に日本国籍を取得した(同法一五条一項)というべきである。
3 抗告人は、1及び2で認定したとおり日本国籍を有しながら本籍が不明であると認められるところ、以下のとおり就籍することを希望している。
本籍 東京都板橋区大山西町五二番
氏名 甲野太郎
父の氏名 甲野二郎
母の氏名 金三江
続柄 長男
生年月日 昭和一一年二月一一日
ところで、本籍及び氏名については抗告人の希望を不相当とする事由はなく、また、1で認定した事実によると、父母の氏名、続柄及び生年月日が右のとおりであると認められるから、右のとおり就籍を許可するのが相当である。
三よって、抗告人の就籍申立てを却下した原審判は相当でなく、本件抗告は理由があるから、原審判を取り消し、家事審判規則一九条二項の規定に従い、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官瀬戸正義 裁判官小林正 裁判官清水研一)